ここ2か月ほど綴れていなかったブログですが、今日は庭を眺めながら少し時間を割いています。
新事務所が完成してから、早いものでもう2か月ほどが経ちました。
自分の事務所を建てるというのは、なかなか厄介なもので。普段から「あれを使ってみたい」「こんな納まりにしてみたい」「こういう空間も良いな」などと、頭の片隅に溜め込んでいたものが、いざ自分の建築となると一斉に顔を出してくる。誰に遠慮する必要もないわけですから、なおさら。
あれもしたい、これもしたい、こう魅せたい。煩悩の塊。
今回の設計は、そんな煩悩をいかにいやらしくなく建築に落とし込むか、という作業だったように感じます。建築を仕事にしている以上、どうしても自分の好きなものや考え方を形にしたくなる。ただ、それがあまりにも前面に出てしまうのは、どうにも好きになれません。
僕の性格上、「これどうだ!」みたいなことはちょっと苦手で。もちろん、強い造形や圧倒的な空間に心を動かされることもたくさんある。けれど、自分がつくりたいものは、もう少し違うところにあるように思います。
一見すると、何でもない。だけど、よく見るとふと「良いやん」と思える。窓の位置だったり、木の使い方だったり、何気ない素材の切り替わりだったり。わざわざ説明するほどのことでもないけれど、そこにちゃんと理由がある。そういう小さなものが、あちらこちらにちりばめられている空間が好きです。
なんとなく静けさを感じる。
だけど、冷たいわけではなく、どこかあたたかい。
そんな場所が良いなと。
もっとも、こうして文章にしてみると、ずいぶん都合の良いことを言っている気もします。主張はしたくないけれど、何も考えていないと思われるのも嫌。目立ちたくないけれど、よく見れば気づいてほしい。
なかなか面倒な性格です。
でも、建築というのは案外そういうものなのかもしれません。何かを強く表現しようとするほど、それ以外のものが見えなくなってしまうこともある。逆に、何もしていないように見える場所に、随分と多くのことが考えられていたりする。少なくとも僕は、後者の方に惹かれます。
今回の事務所も、どう魅せるかを先に考えるのではなく、ひとつひとつ必要なことを考えていった結果、自然とそういう空間になっていけば良いと思いながら設計を進めました。
そして、無事に完成。
実際に出来上がった空間も、概ね想像していたとおりでした。ただ、ここで少し引っかかることがありまして、完成した建築を見て、想像を超えるような感動があったかと言われると、そうでもない。設計したとおりのものが、設計したとおりに出来上がった。
それだけのことです。
悪く言えば、想像を超えていない。
建築家として、これはどうなんだろう、そんなことも少し考えました。
もちろん、設計したものがそのまま形になるというのは、決して簡単なことではありません。現場で丁寧に仕事をしてくださった職人さんたちがいて、ようやく実現できることです。それは十分に分かっているつもりです。
ただ、自分がつくったものに対して、自分で感動するというのも、なんだか少し違う気がする。

そもそも、自分の想像を超えることが、良い建築の条件なのだろうか。驚きがなければ、つまらない建築なのだろうか。そんなことを考えながら、完成した空間で仕事をしています。
すると、不思議なもので。
最初は何とも思わなかったところが、日を追うごとに少しずつ良く見えてきたりする。
朝の光が入る時間
窓の外に見える木々
夕方になって、室内の明るさがゆっくり変わっていく様子
特別なことは何も起きていないのですが、なんとなく良い。じわじわ来る、とでも言うのでしょうか。もちろん、ここはこうしておけば良かったな、と思うところもあります。細かな寸法や納まり、使ってみて初めて気づくこともある。自分で設計しておいて何を言っているんだ、という話ですが。それでも今は、これで良いのだと思えています。
想像を超える建築ではなかったけれど、想像していた心地よさが、ちゃんとそこにある。今の自分には、それで十分だったのかもしれません。いや、十分という言葉も少し違うか。
これが良かったのだと思います。

お盆休み明けに引渡しを終え、そこから少しずつ事務所としての機能を整えています。
これまで使っていた冊子や素材サンプル、道具などを運び込み、ようやく仕事場らしくなってきました。
ただ、まだまだ足りないものだらけです。
キッチン下の引き出し収納も、細かな棚も、実はほとんど考えていない。
設計事務所なのに。
と思われそうですが、まあ、そんなものです。
実際に使ってみないと分からないこともありますし、最初からすべてを決めてしまう必要もないと思っています。何をどこに置くのが使いやすいのか。どんな収納があれば、日々の動作が自然になるのか。使いながら考えて、必要になったらつくる。そうやって少しずつ継ぎ足していくのも、悪くない。
住宅の設計でも、暮らし方を細かく想像することは大切にしていますが、設計者がすべてを決めてしまうことが正解だとも思っていません。
暮らしというのは、そんな都合よく図面どおりには進まないものですよ。
家族が増えたり、趣味が変わったり、昨日まで必要だったものが、ある日突然いらなくなったり。
人間の方が勝手に変わっていくのだから、建築にも少しくらい余白があって良い。
完成したときが100点満点で、そこから少しずつ古くなっていくだけの建築というのも、なんだか寂しいですしね。
とはいえ、今はそんなことを考える時間もなかなか取れず。
ありがたいことに、ご依頼いただいているお施主さんたちの設計で手一杯。
新しく名古屋でのプロジェクトも動き始め、住宅だけでなく、歯科診療所や小さな事務所なども進んでいます。
用途が違えば考えることも違い、それぞれに難しさがある。
ただ、どんな建築であっても、そこを使う人が無理なく、気持ちよく過ごせる場所にしたいという思いは変わりません。
自分の事務所の収納をつくる時間はないのに、人の収納については毎日のように考えている。
なかなか不思議な仕事です。
そして、もうひとつ。
建築は完成したものの、外構については本工事の中でほとんど手を付けていませんでした。
庭放置状態。
建物は完成したけれど、周りは何とも寂しい畑土状態。
もともと建築と庭は切り離して考えられないものだと思っているので、これでは完成したとは言い難い。
さて、どうしたものか。
庭屋さんにお願いして、クリエイティブにつくってもらうか。それとも、自分でやってみるか。しばらく悩んでいました。当然ながら、庭づくりには専門的な知識と経験が必要です。植木の性質、土の状態、水はけ、日照、成長したあとの姿。考えることは山ほどあります。




プロにお願いした方が、きっと良いものになるのでしょう。
けれど、結局のところ「まずは自分でやってみよう」という結論に。
自分でやってみないことには、その大変さも、難しさも、失敗も、深いところまでは理解できない気がしたからです。
建築の仕事をしていると、図面を描いて、それを誰かにつくってもらうということが当たり前になります。
もちろん、それぞれに専門性があって、役割がある。
それで成り立っている仕事です。
ただ、頭で理解していることと、実際に手を動かして理解することには、随分と距離があるように思います。
図面の上では簡単に描ける一本の線も、実際につくろうと思うとなかなか大変だったりする。
そういうことを、できるだけ忘れたくない。なんて、少し格好の良いことを言っていますが、単純に自分でやってみたいだけなのかもしれません。
いつまで経ってもプレイヤー気質が抜けません。
で、いざ庭を触り始めてみると。
これが楽しいのなんの。
普段は椅子に座って、パソコンをカタカタ言わせまくっている時間がほとんど。
頭の中で考えて、図面にして、寸法を調整して。それはそれで好きな仕事ですが、土を掘って、石を動かして、木を植えている時間が、なんとも心地よい。無心で土を触っていると、余計なことを考えなくなる。考えなくなるというより、考えることが目の前のことだけになる、と言った方が近いかもしれません。
この木はもう少し右の方が良いだろうか
この石は少し埋めた方が自然に見えるだろうか
この下草は、ここでは日が当たりすぎるだろうか
そんなことばかり考えている。
普段の仕事でも似たようなことを考えているはずなのに、身体を動かしながらだと、まったく違う感覚になるのが面白い。アオダモやアオハダ、モミジなどの雑木を植え、その足元に低木や下草を少しずつ加えています。
一本植えると、その隣にまた一本欲しくなる。下草を植えると、今度はその周りの余白が気になってくる。石を置けば、その先の景色を考えたくなる。まったく終わりが見えません。
そして、植物というのは思っていた以上に難しい。
日当たりが良ければ良いわけでもなく、水をたくさんあげれば良いわけでもない。乾燥を好むものもあれば、湿り気を好むものもある。同じ庭の中でも、ほんの数メートル違うだけで環境が変わる。
植えてから調子を崩す木もあれば、思いのほか元気に育っているものもある。毎日のように調べては、ああでもない、こうでもないと考えています。正解なんて全く分かりません。
そもそも、庭にも正解なんてあるのだろうか。
ただ、自然に見えるものほど、実は人の手が入っていたりする。
何もしていないように見せるために、随分と手をかける。
昔ながらの庭園などはそれですよね。あれは完成されていて、行きつく先はあれだと思ってしまっています。
(今はアトリエ永日として売りだしていく庭への造りが強い)
建築とよく似ています。
最近は、何でも早く、効率よく、という話をよく耳にします。仕事も暮らしも、いかに無駄を減らすか。世の中の変化も随分と速くなりました。
AIに聞けば、知りたいことはあっという間に返ってくるし、文章も図面も、これまでとは違う速度でつくれる時代になりつつあります。HPを1ページ目に持ってくるためには今やAIに媚びる必要がある。
世界に目を向ければ、争いや対立は絶えず、日本でも物価や暮らしの先行きに不安を感じるのが日常となってしまった。
小学生の時の「明日月曜だから小学校終わりに近所の兄ちゃんとジャンプ買いに行かなきゃ」と平和してた感覚というのはもうなくなってしまった。大人になってしまったのか、情勢からくるものなのかはわからないが、、。
そんな中で、庭に木を植えて喜んでいるというのも、ずいぶん呑気な話なのかもしれません。
ただ、こういう時間も必要なのだと思います。
便利になることと、豊かになることは、必ずしも同じではない。早くできることが増えたからといって、ゆっくり考える時間までなくしてしまう必要はないはずです。もちろん、効率が悪いことを美徳にしたいわけではありません。仕事は早く進められるに越したことはないですし、便利なものはありがたく使いたい。
ただ、何でもかんでも効率で測ってしまうと、こぼれ落ちてしまうものもある気がします。庭に植えた木が大きくなるには、何年もかかります。今日植えたからといって、明日には立派な庭になっているわけではありません。水をあげて、様子を見て、ときには失敗して。
そんなことを何年も繰り返して、ようやく思い描いていた風景に近づいていく。その頃には、今とは違う風景を思い描いているのかもしれません。人間の都合で時間を縮められないものが、身近にあるというのは、案外良いことなのだと思います。
そして、庭を触りながら改めて感じるのは、建築は建物だけでは完結しないということ。
窓の外に一本の木があるだけで、室内の印象は随分と変わります。
葉が揺れれば光も揺れる
季節によって、窓から見える景色も変わる
建築そのものは動かなくても、周りの環境によって空間の表情は変わっていく。
今回の事務所を設計するとき、建物をどう魅せるかということを考えていました。けれど、庭をつくり始めた今は、建物があまり目立たなくなっても良いと思っています。木々の間から屋根が少し見えたり、枝越しに木の外壁が見えたり。建築が庭の背景になっても良いし、庭が建築の背景になっても良い。どちらかが主張するのではなく、自然と馴染んでいく。
そんな場所になれば良いなと。
今はまだ植えたばかりの小さな木ばかりです。思い描いている風景になるには、随分と時間がかかるのでしょう。それまでに枯れてしまう木もあるかもしれません。配置を変えたくなることもあるでしょうし、そもそも今考えていることが間違っている可能性だってあります。まあ、それはそれで。
建築のように、一度つくってしまうと簡単には変えられないものとは違って、庭には少し気楽なところがあります。
植物にとっては迷惑な話かもしれませんが。
それでも、こうして手を動かしながら、少しずつ自分の好きな風景をつくっていけるというのは、なかなか贅沢なことです。建築が完成したとき、想像を超えるような感動はなかったと書きました。けれど、考えてみれば、完成した瞬間にすべてが決まる必要もないのかもしれません。
木が育ち、素材が変化し、使い方が少しずつ変わっていく。そうした時間の積み重ねによって、設計したときには想像できなかった場所になっていく。むしろ、そういう建築の方が面白いのではないか。最近はそんなことを考えています。
完成した瞬間が一番美しい建築よりも、時間が経つほどに良くなっていく建築。以前からそんなものをつくりたいと思っていましたが、ようやく自分自身で、それを確かめられる場所ができました。
もっとも、10年後にどうなっているかなんて分かりません。
木が思いのほか大きくなりすぎて、困っているかもしれないし、庭づくりに飽きて、まったく違うことを始めているかもしれません。それでも良いのだと思います。最初からすべてを決めてしまわず、変わっていくことを受け入れる。建築も、庭も、そこで過ごす人も。
ずっと同じである必要はないのでしょう。
新事務所は、ひとまず完成しました。
けれど、まだまだやりたいことは山ほどあります。
収納もつくらなければいけないし、庭も整えたい。
本業の設計も、ありがたいことに忙しい。
やりたいことに対して、時間がまったく足りません。困ったものだ。
まあ、全部いっぺんに完成させる必要もないか。
建築も庭も、少しずつ。
今はそれくらいが、ちょうど良い気がしています。

